『朴の木』は1960年に出版された唐木順三氏による随想集です。唐木順三氏は1904年長野県生まれの文芸評論家で、1970年代には大学の入試問題にも氏の著作から出題されていました。著作名は覚えていませんが、予備校の現代国語の授業で取り上げられたことを覚えています。おそらく、氏の著作は高校の教科書にも載っていたと思います。

その『朴の木』(1977年発行の講談社学術文庫)が、地方のスーパーマーケットでの古本販売の催事で目に留まり、著者の名前が懐かしくて手に取りました。購入を決めるのに20秒も掛かっていないと思います。

その判断は大正解でした。なぜそう思ったかは作品の一部引用でお答えしたいと思います。以下は『朴の木』にある「三十六の随想」の中の「古典とのつながり」からの引用です。

「(前略)私はかねがね、この本こそを私一人のために書き残されたのだ、という読書の体験をもたないひとは気の毒な、不幸な人だと思っている。万巻の書をひとしく読んで、博識の学者になるのも悪くはないが、やはり気の毒だなと思う。たった一冊の書でも、その書が私自身一人をめあてにして、私のために、私を目覚まし、私の考えをのばし、私の生き方をたしかめるために書かれたのだ、というそういう体験をもったひとは幸福な、仕合せなひとだと思う。(中略)読みは初めたときから、早くこの本を読み終わってしまいたいと思うような本が多い。通常の読書とはそういうものである。ところが、稀には、頁をめくることがおしいような、読み終わることを残念に思うような本がある。終わりまで読んだら、どうしてもまた初めから読みたくなる本がある。そういう本が私にとっての古典となるのである。(後略)」

「三十六の随想」は私にとって正に「古典」だと一読して思いました。

「三十六の随想」は1957年4月から1960年3月まで雑誌『信濃教育』に連載されたものです。長野県の教職員向けに65年以上前に書かれています。

日々悩みながら働いている先生たちに向けて、幅広いテーマについて経験や学びを語りながら、人生や教育の本質を語る、励ましの応援歌のように感じました。どの随想も今読んでも共感できる内容だと思いました。

一方の『崩壊する日本の公教育』は2024年10月にされた集英社新書です。著者の鈴木大祐氏は2016年に『崩壊するアメリカの公教育』(岩波書店)も出版されています。(こちらの本は新自由主義に侵された米国教育「改革」の惨状を告発と『崩壊する日本の公教育』の表紙に紹介されています。)

『崩壊する日本の公教育』に引用されているアメリカを代表する教育社会学者であるマイケル・アップルらによって1990年にアメリカで発表された論文で描かれているアメリカの教育現場の姿を読むと、まるで今の日本の状況の描写かと見間違うばかりです。

著者によると今の日本は新自由主義化する社会の帰結として、教育のマニュアル化、公教育の市場化、学校はサービス業化、教育現場における「構想」と「実行」の分離、教員は「使い捨て労働者」と化している状況が進んでいるようです。

もし今の時代に唐木順三氏が生きていたら、悩み多き先生たちにどんな励ましのエールを送るだろうと思いました。それでもやはり、「三十六の随想」の内容を多少アレンジした人生や教育の根本に関わることばでエールを送るのではないでしょうか。

大切なことは時が経ってもそう簡単にはかわりません。ただ、時代と共に益々見えにくくなっているように感じます。

『崩壊する日本の公教育』に紹介されているアイルランドの詩人、イエーツの以下のことばは教育の本質を表しているように思いました。

「教育とは、バケツを満たすことではなく、心に火をつけること」 親と先生とがタッグを組んで子供の心に火をつけ、その火が消えないように二人三脚でサポートし続けたいものです。